昭和46年07月06日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
天地の親神様に願いを受け入れ。その願いを取次いで下さったのが教祖金光大神であります。成程、天地金乃神の御心を伝えて下さった。御自身もそれをお受けられてそういう事が金光大神が内容として頂かれた御信心、又は形に表わされたおかげにつながって来た。そこで御自身の内容であり又は形の上におかげを受けてこられた。そのおかげを受けて来られた話を私共に伝えて下さる。
ですから教祖様の教えて下さる事は、即天地の親神様の御言葉とか御心というものを教祖金光大神の実意丁寧正確無比というか、たとえ様もない程しにそこのところを御自身が頂かれて言わば咀嚼された。自分で噛んで味合われた、その味合いがおかげになって表れてきたそのおかげを話して残しておくとこう仰るように、どこに参っても片便の願い捨てであった。言わば信心とは拝むこと。
一心に祈念をこらすことであったのが、所謂神の心しかもわかり易くしかも間違のないところを御自身が体験され表わされ、言うならばそれこそ噛んで含めるように教えて下さったのが御理解。いわゆるお道の教典だと思うんですね。ですからそこを頂かなければ、だから同じです。成程天も地も昔から死んだことなしと所謂その生きた天地に例えば直接縋るというような例も沢山ありますね。
例えば菅原道真公などは、いわゆる太宰府に二日市に流れなさった。そして苦しい御自分の心を天地に訴え、天地に祈念された。一日も早う自分の身の証が立つようにと言う事を願われたと言うことですね。それが天拝山であります。道真公が天拝山の頂から天を拝まれた。地をされた。あれは山中鹿乃助ですかね、三日月に向かって三日月様を拝まれた、吾に七難八苦を与え給えと。
これ等もやはり天地を拝まれたのと同じです。けれどもそれはどこまでも、やはり生きた天地ということを知ってか知らずでか知らんけど、まあ天を拝し地を拝しして拝んできたという人は沢山あるです。けどそのこの方が祈るところ天地金乃神と一心なりと、と言うところには至っていないのですね。天地を拝んだという人は沢山あります。しかもその天地金乃神からおかげを受けられたそのおかげを、御自身が言わば実行なさった。しかも無比の無比と思われる実意丁寧をもってそれを行じられた。
そこからもう金光大神のものになってしまった。言うならばまあ此処では、天地金乃神から頂かれた事はもっともっと厳しくてむつかしいことでおありになったかも知ないそれでも、そこは教祖金光大神の御人柄というか御信心というか実意丁寧を極められた。その生き方の中から誰でもが本気で行じさせて行けば行じられる程しの素晴らしい御教えになって残された。言うなら自分で咀嚼された。
そして体験を受けられて、それを間違いないものをそのまま私どもに後々の者に話として残しておって下さったというのが、私は金光大神の御言葉であると思う。教祖の御時代には、御斉田というのか天地の親神様が直接お知らせを受けられて、それを直接お話になったという事実もいくらもあります。けどもとう殆どは御自身が受けられた体験を御理解としてお話になった。ですからこれはもう言うならそれこそ噛んで含めるようにだから説いてありますわけ。誰でも分る。
教祖金光大神が一応咀嚼しておられる。そして危な気のない危な気のないどころか、もう絶対おかげが受けられるお話を残しとって下さる。いわゆる片便の願い捨てではないわけである。お願いに出ますとそれこそ懇々として説き明かして下さった。それが御理解である。そこでですね、その神様の教えて下さった事しかもそれを金光大神が一辺もう体験済み。金光大神がそれを咀嚼して私どもに伝えて下さる。その事を私どもが本気でどの様な姿勢で受けねばならないかと言う事です。
そこからね成程神様が生きてござるなあ、天地が生きてござるなあ成程金光大神が此の方が祈るところ天地金乃神と一心と仰せられるが成程一心でおありになるなと言う体験は、そこから生れてくるわけです。容易う説いて下さったからと言うて、その容易うわからせて頂くけれども実際それを行の上に表わすということは大変難しいこと。けれどもねそこんところはやはり本気で行じませんとですね、行じる事の楽しみがなくなる。行じる。お話を聞かせて頂いてあぁ成程成程と分る。
いわゆる噛んで含めるように教えて下さるから分る。分るけれども、それを実際の生活面に表わすことは又の御理解にもありますように、聞いた話は途中で落としてしまい家に帰ったら自分の良い様にするからおかげはないと仰った。はあちょっとお話が難しうして分らんちゅう訳ではない。それこそ噛んで含めるように誰にでも分る様に、御理解下さっているのが教祖の御理解であり御教えであります。
ですからその分った事をやはりお願いをしてそれに対して返事のようなものですから、片便の願い捨てではなくて願った事に対するところの御返事の様なものですからこれを本気で私どもが頂いて帰ったら自分の良いようにするようではなくて、それを守らせて頂くところから成程天地が生きてござるなあと言う様な言がはっきり分って来る。分って来るから行ずることの楽しみがあるのです。
きついけれどもそこんところですね、又はその行じる、行じない方が楽な事もありますけど、そこんところ楽の方を取らずに修行の方を取らして頂く生き方にならして貰ってね、おかげを頂かして貰わなければならん。昨日は壮年部会でございましてね、皆さん集まられていろいろと話を聞かせて貰いました。専ら昨日はこちらは聞き役でございましたが、最後に久留米の石井清さんがこういう発表をしておられます。
先日御夢を頂きました。親先生が私の御夢の中に現われなさってから、こういう事を言われます。総ての事柄を御事柄として謹み畏み頂けば、どんでん返しのおかげが受けられるという御夢を頂かれた。日頃私がお参りして来ませんけれども、私が一生懸命しきりに言うておることを清さんのお夢の中で神様御知らせ下さっている訳ですね。親先生すべての事柄を、それを御事柄として謹み畏み頂けばというところ。
只頂いとるとじゃない、只聞いて帰っただけではない。もう謹み畏んで頂けとおっしゃる。そうすればどんでん返しのおかげが受けられると。死に直面しておる者、言わば生還のおかげが頂けるでしょう。どういう人間関係にも、そりゃもうどうにも手がつけられん様な問題でもそれこそ不思議と思わにやおられん程しのです、それこそ芝居でやるどんでん返しですね悪が栄えておったのが一変に善人が助かってくると言った様なあれがどんでん返しと申します。
そういうね不思議な働きがある。問題はね謹み畏み頂けばと言う事である。私はここらへんを大変に有り難い言葉と頂かして頂いた。最近私が申しております一切合切がと言う、一切合切が有り難く受けると言うその有り難く受けると言う、謹み畏んで受けねばいけんのです。謹み畏んで受けるから、謹み畏んで又行じていくことが出来る。簡単に聞いて簡単に頂いて帰ったというだけでは、もう家に帰って自分の良い様にすることになる。謹み畏んで頂くというところ。
言うなら神様の御返事とも思われる神様の御心とも思われるその御心を、しかも私に下さるその御教えをです私どもがね謹み畏んで頂くところの信心の姿勢というものが出来なければいけない。お互いが謹み畏んで頂いていないですね、もう特に難しいのは人間関係ですね。或る方が昨日お参りして見えて、使用人の方がある不調法をしでかしたわけです。それではあ私達の不注意でしたとかね。
本当にそういう様な態度と言うかすればね言わんで済むけど、まるきりそう言う事の起った事はみんな誰か悪い彼が悪い、誰がこう言う事をしとったからこういう事になったと言うて言い訳をされる。それを聞いてもうむしょうに腹が立ってきた。そしてこの人になら言わんで済むことでも、この人には言わんじゃおられんと言う様な衝動的なものが湧いてきてその事を言うてしもうたとこう言う。
確かにそういう場合がありますですね。まあここに例えば繁雄さんと堤さんが居られますが、繁雄さんが例えば不調法される。同じ様な不調法されたとしましょうか。所が繁雄さんの場合にならそれは誰でもその位の不調法はあるがのち言いたいけど、なら堤さんの方の場合はあんたがそげな事をしてと悪く言いたいそん場合がありますでしょうが、同じ事柄でも一人の方はそういう風に寛大に受けてやられるけれども片一方の方はそれを突く様にそれを刺す様に言わなければ居られないと言ったような人があります。
ですからその問題はその人柄をですねよく検討してみるとね、片一方の人は本当に私が行き届かじゃったと言った態度をしとられる人ですよきっと。すと片一方の方はですね成程不調法じゃったばってん誰かがこげな事しとったけんこげんなったと言った様な態度がてすね、言やせんけど態度がですね体全体ににじみ出ているわけです。それがどうか言わにゃおられん、つつかなおられんと言う事になってくるのですよね。
これはまあ私ども、そういうところ本当に思わなきゃならない。もうあれがこげん私にやかましく厳しい事を言うと、言う時には厳しい言われなければならないような内容を言われる方が持っとるという事ですね。もう私の顔を見れば睨みつけてから物言わっしゃる。睨みつけられなければならん様なものを持っておるです、その人が。そして片一方の方の人の時には、ニコニコ笑いながらと言う事なんです。
同じことでも。ですからその人の内容です。睨みつけられなければならん様な内容を持っておるわけです。だから睨みつけられる方もです、そこんところを私は改まっていかねばいけんと思います。なら今度はそれを言う方、注意をする方もですね今日のところはそこのところなのです。私どもの日常生活にそれがあります。同じ事柄でも片一方にはニコニコした顔で接し、片一方には睨みつけたような態度で言うと言う様なですそう言う事ではない。その事柄自体をですね言うなら御事柄として受けれる信心。
しかもそういう例えば損になっとる事ですね例えば不調法したと言う事、それが使用人の不調法であっても損になることであってもです、店主であるところの主人がですねそれを御事柄として謹み畏んで頂いたらそれは素晴らしい事になってくる。それはどんでん返しのおかげが受けられる。その事もおかげになる事であろうけれども、その不調法したその内容に睨みつけなければならん様な内容を持っておるその人までもが、おかげを受けることになってくるでしょう。
私は信心とはそこのところを極めていく事だと思う。だからそこんところ非常にだから難しいわけですね。そこで言うた方がですとても楽なんですやはり、あんたどんが日頃こんな不調法しでかして、それならそれでも済みませんという態度をとるなら言やせんけれども如何にも悪かとは他の者のごたる態度をとるから言わにやおられないと言う事になってくる。これはまあ普通人情であります。けど信心させて頂く者はそこんところをです、その事柄を御事柄として頂くわけです。
しかも謹み畏んで頂くのです。言うならば使用人の不調法は店主私の不調法として頂くのです。それは相手に睨みつけなければならん内容を持っておったにしてもです、それをもう一つ寛大な心というか神様の御事柄として謹み畏んで頂くと言う事にならば、次はどんでん返しのおかげが受けられると言う事がです私そこんところの体験がですね頂かせて頂けるようにならんとね。
成程天地が生きてござるなあと言う事の体験になってこないと思う。只お願いをしておかげを頂いたというのでなくして、自分自身がそういう在り方にならせて頂いて御事柄として謹み畏んでいく様な態度がとれるようになれたその事が有難いのではなくて、そのことが次のどんでん返しのおかげにつながっておるわけである。そこにはそのこと自体がおかげになるのではなくて、例えて言うなら人からあまり好かれないと言うか睨みつけねばおられないような。
これは言わんがいいけど言わねばおれない様な内容を持っておる人もです、私は改まってくると思うですね。そういう寛大な主人であるならば、使用人がそこんところを言わば自他ともに助かってくる道が開けてくると思うのです。そこに初めてです、成程天地が生きてござるなあと天地の心に添わせて頂く、天地の心といえば天の与えて止まない心と地の受けて受けぬかせて頂くと言う様な心がです私ども人間の上に頂かさせて頂いたら、そこにどんでん返しの天が地にひっくり返るようなおかげになってくる。
そこに初めて成程天地の心を心とするということが如何に大事な事かそこにはです、その事のおかげだけではなくて自他ともに助かって行けれる。自分はいよいよ大きく豊かになってゆけれるしかもそこには成程天地の心を心とする生き方になれば、天地が成程生きてござるなという体験が生れてくる。そういう体験をです私どもが頂いていくところから言わば謹み畏んで頂くことの有難さ、楽しさが生れてくるわけです。
どのことの様な場合であっても御事柄として謹み畏んで受けていけれる信心を頂かしてもらわなければ成程天地が生きてござるなあと言う様な体験は生れてこない。そこの体験を積んでいかなければ、又問題に直面した時にですそれを又天地の心で受けていくようなおかげになってこない。どうぞ一つお互いが、神様が御返事の様にお願いした事に対する、又はその答えのように御理解下さる。しかも噛んで含めるように御自身が天地の神様から受けられた。
それを自分が咀嚼して誰にでもわかる様に噛んで含める様にして下さるのであるから、それを本気で頂かしてもろうてそれを行に表わす楽しみが出来てくる。そこから天地が生きてござるという印を感じさせてもろうて、成程天地日月の心になること肝要だなあと常日頃にそれを思わして頂くことが出来る。だからすべての事を天地の心を心として頂いて行きしかも又それを表わして行くことが出来る。しかもそれは目を見張る様などんでん返しのおかげになってくるわけでありますね。
どうぞ。